カルチャースタディーズ 30代インタビュー 第3回
三浦:僕の父方の祖母は、庄屋とはいえ、百姓の女だから、字も書けない。平仮名がやっとぐらいなんですね。でも、なんか気骨のある、しっかりとした考えの人でした。母方の祖母は教員だったから、教養も知識もあるんだけれども、なんか新興宗教に惹かれたりさ、そういう弱さがあってね、福田恆存が職人の家の出ということはやっぱり大きいと思うんですけど、無学な人間の強さというかね。常識をベースに論理を組み立てている。福田はその常識によって浮ついた知識人をバッタバッタと切っていくという、それもスパッと切るんじゃなくて、関節技でね。ぎゅうっと。そこになんかね、プロレス的にはまってしまったんですよ(笑)。
浜崎:同時代的には、僕が全然わからないところですよね。でも、読まれていて、周りから白い眼というか、白眼視みたいなものはなかったんですか?
三浦:それはない。一橋だからということもあるでしょうが、基本がやや右ですし。時代が時代だから、左だって言ってる人はすでに少し変わった人だったし、特に右だって言う人もいないし、だから白眼視はないですね。
たまに福田の話をすると、肯定する人のほうが多かったですかね。当時よく議論した先輩が、左翼だったけど、僕のことをブログで書いてくれるとき、三浦は学生時代に福田恆存のようなモラリストの本を読んでいたと紹介してくれています。
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福田恆存とマックス・ウェーバー
三浦:それでも、社会学部というのはかなり、マルクスとか読むのが当たり前の風潮で、僕も資本論とかのゼミに入りましたけど、かなり一時はまったんですけど、これをやっていくとマズイな、と思って(笑)。ウェーバーにある意味、逃げたんですが。考えてみると、ウェーバーと福田恆存って似てるんだよね。
浜崎:いや、そうだと思います。僕自身は、ウェーバーの、山之内靖さんの入門書がすごく好きなんですけれども。
三浦:僕も大好きです。
浜崎:あれを読んでると気づくんですが、福田がずっと慕っていたD・H・ロレンスとウェーバーは関係があるんですよね。ロレンスの妻のフリーダは、当時ウェーバーと関係があったエルゼ・リヒトホーフェンの妹だったりする。
三浦:あぁ、そうですね。
浜崎:ウェーバー自身も、ロレンスが言うような「大地」とか「コスモス」なんかの必然を感じながら、つまり、アルプス以南のイタリアによく行くとか、そういうところで自分の整理をしながら、ロレンスがピューリタリズム批判をするのと同じように、個人主義批判を展開していたのだと読める。それをウェーバーは、まさに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかでやったんだ、という感覚を持ちました。
三浦:そうなんだよね。まぁ、ウェーバーは、大塚久雄が導入したことで近代を善と思っている人みたいなニュアンスで伝えられてしまったところがある。大塚も晩年は見方を変えるようですが、実際は、ウェーバーは近代に引き裂かれてしまっている。 たとえば、個人主義とか近代的なものをウェーバーはしばしばドイツ語の「nuechternニュヒテルン」という言葉で表現していますが、これは冷酷とか、冷淡という言葉です。だからウェーバー自身がアンビバレントであって、近代化をよしとする部分がある反面、嫌う部分もかなりあったように見える。ところが、それを言えない空気が戦後日本に一時期漂っていた。それはおかしいってことを山之内靖さんがちゃんと研究した。僕もウェーバーとニーチェの連関について研究したかったんですが、もっとドイツ語がスラスラ読めたら、山之内さんのような研究をしようと思っていたんですけど、何年やってもドイツ語の語学力があがらないので、これはもうダメだと思ってあきらめたんですけど(笑)。。
浜崎:うん、山之内さんは新鮮でしたね、本当に。ニーチェの問題、イタリアの問題。そういうふうにウェーバーは読むものだったのか、と初めて気づかされましたね。あと、ちょっと本の中でも指摘したんですけど、ウェーバーの言う「責任倫理」と「心情倫理」、あの区別は、福田の言う「政治」と「文学」や、その考え方の基本にあるロレンスの「集団的自我」と「個人的自我」、その二重性をおびた人間観と響き合っているんですよ。。 『職業としての政治』のなかで、「責任倫理」と「心情倫理」の話をするとき、ウェーバーは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中の「大審問官」のエピソードに言及しているんですが、実はロレンスも、「大審問官」の話から「個人的自我」と「集団的自我」について書いてるんですね。しかも、二人は、ニーチェからの影響も受けている。ニーチェが、ギリシア悲劇をテコに近代を相対化したり、パウロが作ったキリスト教会と、死ぬまで孤独だったイエスその人を区別したところなんかも、似てますよね。
ロスジェネと福田の親和性
三浦:なるほど。浜崎さんのまわりにも福田ファンがいるということでしたけれど、福田をもっと現代的に知ってもらう意義があると思うんですが、それはどのへんにあると思いますか?
浜崎:それはいろんな語り方ができると思うんですが、まず卑近なところから話せば、おそらく僕たちがもう右肩上がりじゃない、という感覚をみんな持っているということは、確かだと思うんですね。夢とか、あるいは理念とか、社会が設計できるんだとかいう信憑はいっさいない。で、どうやって食っていくんだといったところで、追い込まれていて、自分のことだけで精一杯っていうのが、まわりを見ていても、そういう感じがします。 で、そのとき、理念は、けっして「私」を支えてくれないという感覚。もっと言うと、では、「私」を支えているものというのは何なのかという問い。それを、まぁ、ロスジェネど真ん中とかいうことを別に特権化するつもりも全然ないんですけれど、ただそういう切実な問いに、福田の言葉は応えているという手応えはありますね。
三浦:リアルな言葉。
浜崎:そうですね。まさに、おためごかしの知識人言説にうんざりしていたということは確かで。
三浦:理想の時代や、夢の時代は知らない。
浜崎:そうですね。
三浦:浜崎さん世代にも、うんざりするほどの知識人って、まだいましたっけ?
浜崎:えーとですね、あの、姿形は変えど、ということになると思うんですけれど、僕らの世代は、ギリギリ遅れてきたポストモダニズム世代なんですよ。ニューアカの残り香のなかで、高校、大学なんてやっているわけですよね。そうすると、その全盛期ではないんですが、まぁ普通、浅田彰とか、その後にくる宮台真司とか、そういうのをまわりが読む。たとえば、宮台なんかが、『制服少女たちの選択』を書いたとき、僕は、ちょうど高校生一年生なんですね。
三浦:あぁ、ルーズソックス世代だね。
浜崎:そうなんです。それを、「社会システム論」や「フィールドワーク」を身元保証にして、大人が子どものことをわかってあげる的に書く、これが、当事者としては、「隣の、この女の子が、革命的? もう嘘!」って感じになっちゃうんですよ。
三浦:そうなの?(笑)。
浜崎:でも、それに、たとえば、ルーズソックスの女の子たちと関係のないような子たちが、むしろ宮台の本を手にするっていう、このなんか、みにくい図。これが僕はずっと嫌でしたね。そういう意味でいうと、たとえば、福田が「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」という批判文を書いていますが、まさに、近代日本知識人の「典型」というのが重要で、あそこの清水幾太郎は代入項で、実のところ、柄谷でもいいし、宮台でもいいし、もちろん浅田でもいいし、と僕は思っているんですね。その衝撃も、あの清水幾太郎論には感じたところがあって。