カルチャースタディーズ 30代インタビュー 第2回
- 建築家 らいおん建築事務所 主宰 嶋田洋平さん
- 【略歴】
1976年 福岡県北九州市生まれ
1995年 福岡県立八幡高等学校理数科卒業
2001年 東京理科大学理工学研究科建築学専攻修士課程修了(工学修士)
2001年 株式会社みかんぐみ入社
2008年 らいおん建築事務所 創業
もとゲームセンターだったというそのスペースでは、リノベーションや商店街の再生についての様々なイベントが行われている。
その活動の中心人物の一人が嶋田さんだ。人口減少時代における建築家の存在理由は何か、聞いてみた。
最初は自動車のデザインとかいいかなと…
三浦 展(以下 三浦):北九州市出身ですが、ずっと小倉ですか。
嶋田 洋平(以下 嶋田):いえ、八幡の黒崎です。戦後の高度成長の頃、うちの父方の祖父母は熊本から昭和28年だったかな、そのころに八幡に出てきたんです。父方の祖父は、戦時中、八幡の皿倉山(さらくらやま)という山に高射砲台があって、そこに勤務していたらしいです。八幡の町が大空襲で焼けるのを、無力に眺めていて。
三浦:八幡も完全に焼け野原になった?
嶋田:製鉄所以外は焼け野原になりました。で、そのあと戦後に、九州のほとんどの市街地が焼かれていたんですけど、ご存じのように小倉は原爆の標的だったものですから、無傷のまま、残されていたらしいですよ。
三浦:あ、そうなの。原爆落とすつもりだから、普通の空襲はしなかったんだ。
嶋田:その最後の第一目標地だったところに、前日の八幡の空襲の煙と、あと、天気が悪かったっていうのがあって、小倉で目標を目視できなかったので、長崎に原爆が投下されてしまいました。
三浦:あぁ、その話かぁ。
嶋田:最近聞いたのですが、戦後、平和になって普通に商売できるようになったときに、すぐに商売が始められた小倉に、ものすごい人が集まったらしいです。九州一円とか、中国地方からも。
三浦:それで、あの旦過(たんが)市場の活気があるんだね。?
嶋田:魚町(うおまち)あたりが、本当に盛況だった時代があって。母方の祖父母は大分から小倉に出てきてラーメン屋を始めました。で、父方の祖父は八幡の町を見ていて、製鉄所を上から眺めていたときに、ここだなと思ったらしいです。近代化の象徴みたいなところで、これからやっぱり「鉄がくる」と思って八幡に。で、紅梅町(こうばいちょう)という鉄工所の沢山あった小さな町で食堂を始めまして、それが、らいおん食堂って言ったんです。
三浦:あぁ(笑)
嶋田:事務所名はそこから屋号を拝借したんです。昭和20年代後半に、じいちゃんとばあちゃんが八幡に作ったんです。
三浦:お父さんは、なんかすごい若い感じなんだけど(笑)。なにをされていたの?
嶋田:父は昭和28年生まれで、高校を卒業後、日産かなんかの車のセールス営業をした後に、私が小学校に入るくらいまでは、らいおん食堂を一時期手伝っていました。そのあと、料亭みたいなところで料理修業をしたこともありましたが。
三浦:昭和28年生まれだとすると、かなり早く子どもが産まれたんだね。
嶋田:そうです。23才くらいのとき、僕が産まれているんです。当時の田舎では当たり前だったのではないでしょうか。らいおん食堂の手伝いをやめた後は、小倉の広告代理店に勤めたり、その後は独立して代理店を経営したり、今回見ていただいたメルカート三番街のオーナーである、梯(かけはし)さんのお父様が以前に経営されていたゲームセンターをお手伝いしたり。化粧品のテレマーケティング会社の役員をやっていた時期もありました。(笑)。