カルチャースタディーズ 30代インタビュー 第3回
三浦:ある意味、近代化というのは、電気釜とか自動車からつくっていって、最後にビルも近代的にしようとか、都市も近代化しようとかって、要するに空間が工業製品化するわけじゃないですか。いまの都市なんてさ、再開発っていうのは、いわば工業製品化するわけだから、大崎も五反田も同じような街に、大量生産化していく。
そうすると当然、曖昧さはなくなるよね。曖昧な機械はないからさ。だから、実は、巨大な都市空間が近代化して、機械化していくために、逆に、そうなると、電気釜をやめて土鍋で炊く人が生まれるっていう、なんだか一周遅れみたいなことが起こるよね。物との不合理な附き合いに飢えるというかね。
浜崎:曖昧さというのが、おそらく、かけがえのなさとかと、つながっているんでしょうね。取り換え可能な機械とは違う。
三浦:まさに。曖昧な部分があるから、附き合っていけるわけでね。
文芸批評だけでなく、都市空間とかにも、批評の対象としては、広く関心はあるんですか?
浜崎:関心はあります。もちろん、素人が好きで読んでいるというレベルだけですが。
三浦:現文学と都市空間みたいな研究もあるわけだけど。
浜崎:そうですね。それも、やっぱり実際に住んでみて分かることは多いですよね。まだ修士課程にいたころ、白山に住んでいたんですけれど、白山駅は坂の下ですよね。で、上に行くと本郷がある。あぁ、これが下町と山の手の違いかって。
三浦:あの料亭街のあたり? あの旧料亭街、いいよね。あやしいよね(笑)。
浜崎:そうそう、いいですよね(笑)。古くからアナーキストが2階に集まったという南天堂という本屋さんがまだあったりして。
三浦:へぇ。
浜崎:なんか、やっぱり歴史と土地が地続きで、落ち着いているんですよね。その感覚が住んでみるところところで全然違うというのは、身に沁みますよね。
第四の消費
三浦:さすがに、『第四の消費』では福田の「消費ブームを論ず」は引用しなかったんだけど、紙幅の都合もあるので、いくらでも書いてよければ、締切があと1年後でよければ、それについても書いたかもしれないね。『第四の消費』は、もう一度、バージョンアップしたい気持ちが僕のなかにあって、全体をバージョンアップするのは難しいんだけれど、戦後だけとかね。
それから、いきなり「第四の消費」というのは来ていなくて、やっぱり「68」なんだよね。68年というのが、日本でいうと、昭和元禄だよね。GNPがアメリカに次いで2位になるっていったら、いまの中国みたいな時代で、そこから成長への反省も生まれてくるわけだよね。
そこにちょうど学生運動とか、ヒッピームーブメントが絡まって、物だけでいいのか、経済だけでいいのかという疑問が浮上する。公害、ひどいじゃないか、交通事故、ひどいじゃないか、という反省が生まれてくる。でも「国民性調査」を見ても、1968年には「自然には従わなくてはいけない」という意見って、20代ではまだ10%もないんですよ。それがその後増えて、いまは年齢に関わらず、5割いるんです。
浜崎:そうなんですか。
三浦:だから、68年時点では、「自然は大事だ」なんて言っている人は、まだ相当あやしい人だったろうね(笑)。ほとんどは、まだ文明志向だった。ところが、その10%いなかったのが、40年間増え続けたわけですから。40年の流れがあって、それがあるボリュームを持ってきたというのが近年だと思うんですよね。おそらく現代思想的にもそうなんだろうと思うし。電通のプランナーが、「モーレツからビューティフルへ」って、もう1970年に言っちゃう。そういう意味では、「モーレツからビューティフルへ」の思想がかなり血肉化された世代が今、30代になっちゃったからこそ、いまの時代の雰囲気があると思うんですね。
そのときに、20代で、「そうだよな、これからはビューティフルだ」と思った人は10%もいなかったと思うよ、きっと。今だってほとんどのビジネスマンはモーレツでしょ。お金、利益、売れればいい、勝てば官軍、そういう調子の人です。新書の編集長もそうです(笑)。
まして1970年はね、「ビューティフルもいいかもしれないけど、まだモーレツもいいな」みたいな感じだったでしょうね。まだ、欲しいものもあるな、という感じね。それがなければ、第三の消費社会なんてあり得ないのでね。まだ、欲しいもの、いっぱいあるじゃないか、っていう感じね。
しかし、それが最終的には、自分らしいものを選ぶことの苦しさになったと僕は思っているんですよ。これは、先ほど伺った現代思想の潮流とも非常にパラレルで、興味深かったですね。
浜崎:『第四の消費』を読んで、びっくりしました。だいたい社会学的な世代論で、僕がはまったことってほとんどなかったんですよ。さっきの『制服少女たちの選択』ではないけれども、「うっそ!」という感じがあったんですけど、『第四の消費』は、「あれっ?」ていう感じでしたね。僕、こんなに典型的な人間だっけ、っていう感じでした。
ずっと僕は、自分と同世代からは相当異様に映っているんじゃないかと思っていたんですけど、『第四の消費』を読んで、そうでもないのかもしれないと初めて思えましたね。ひととの差別化にたいした興味もないから、着るものもユニクロや無印で済ませちゃっていいといった感じ、あるいは、三浦さんのおっしゃる、「シンプル志向」、「日本志向」、「物から人へ」という感覚も、実は相当、典型的かもしれない。
コミュニタリアンとしての福田
三浦:脱線ばっかりしてすみませんが、もし福田恆存がいたら、サンデル教授になり代われるんじゃないかと思ったんですが、どうですか。
浜崎:なるほど。語り口さえどうにかすれば(笑)。
三浦:意地悪な語り口を、もうちょっとどうにかしてくれれば(笑)。語っている内容も近いと思うんだけど。
浜崎:そうだと思います。
三浦:福田ってコミュニタリアンだよね。
浜崎:ある意味そうですね。コミュニタリアニズムの語り方っていうのが結構いろいろあって、「共同体に帰るべきだ」というような安易な言い方になれば、それには危惧を覚えはしますが、たとえばサンデルなんかが、「負荷なき自己」といった近代個人の抽象を認めず、「状況付けられた自己」を言う感性には共感を覚えます。その上で言えば、福田恆存自身は相当、個人主義者だったという感じはありますよね。ただ、徹底した個人主義者であるがゆえに、個人が個人では成り立たないということも痛いほど分かっていて、その自覚のなかに、「私」を超えるものとでも言うんでしょうか、言葉とか、歴史とか、自然の問題を引き出してくるあたりは、コミュニタリアン的と言ってもいいのかもしれません。ただ、コミュニタリアニズムという形で、社会学的な「イズム」の装いをもって出てくると誤解される可能性もある。
三浦:特定のコミュニティを重視するのとは違う。
浜崎:そうですね。すると、また一匹性が見失われてしまうという。
三浦:確かに、学生時代に読んだときもちょっと意外だったんだけど、彼はタカ派だ、右翼だと言われていたのに、戦争中のことを批判しているでしょう。戦争中を軽佻浮薄と呼んでいるよね。歌を歌って、兵士を送り出すなんて、軽佻浮薄だって書いてあったと思うんですが、あれ? そうなんだと僕は学生時代に思いました。この人は右翼で、反動で、戦争が好きなんだと思っていたら、そうじゃないんだと。これ、どういうふうに考えたらよいのかというのはいまだにわからないけど、つまり、特定の国とか、特定の地域社会とかを賛美して、旗を振って、歌を歌ってっていう、そういう共同体主義はまったくないよね。
浜崎:ないんですよね。だから、やっぱり、附き合うことのリアリティ、この手ごたえを必ず孕んでいて、それ以上のことを絶対言わない。ハイエク的に「自生的秩序」って言っちゃえば、有機体論的になりますよね。国家有機体論とか。しかし、福田が面白いのは、そうは言わない。ただ一言、「自然」と言うだけなんです。
三浦:自然は最も抽象的な共同性ですよね。『第四の消費』にも書いたかもしれないけれど、さっきも話題になりましたが、自分らしさ消費を究めていくと、寂しくなっちゃうわけですよ。自分らしさはまさに“様々なる意匠”であって、思想と一緒で、これがダメならこれと、ペットボトルのお茶もそうやって選んでいるわけです。浜崎くんは「お~いお茶」で、僕が「爽建美茶」っていっても、何もそこに生まれないんだよね。「あ、そう」で終わっちゃうっていうか。それだとさびしいというか、空しいというところまで消費社会が行き着いたと思うんですね。
もちろん、みんなで同じお茶を飲もうってわけではないんだけれど、じゃあ、お茶とどう附き合うかみたいなことを感じ取っているのが、いわゆる「暮らし系」と呼ばれている『天然生活』『クウネル』系の世界だろうと思うんですよね。ずっと暮らしに附き合っていくという心性ね。あれってある意味、保守的なんで。
浜崎:そうなんですよね。福田も好きだった山本夏彦なんか、『室内』の編集長ですしね。
すべてセブンイレブンでいい
三浦:昨日も、飲料のマーケティングの話をしてきたんだけど、いまね、缶コーヒーって1600種類あるんだって。
浜崎:へえ!
三浦:コンビニでも数十はあるね。
浜崎:まさに疲れますよね。